のぐちよの”気になる”ブログ

万年筆とカフェ、音楽と空、そして猫が大好き♪ ”気になる”と思ったことをつらつら書いたり考えてみたりするブログ

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ばあちゃんからの最初で最後の手紙。その人の存在と悲しみを実感するもの

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3月上旬、父方の祖母が亡くなりました。

83歳。

戦前〜戦時中・戦後とまさに日本の激動の時代を生きてきた世代。

9人兄弟の長女で、いつも弟妹たちがばあちゃんのところに遊びに来たり、

手伝いに来たりして慕われていました。

軽トラを乗り回し兼業農家として働く一方、

着物が大好きで踊りや着付けでは教える立場にまでなっていました。

 

晩年は足腰の痛みを訴えることが増え、

3年前にくも膜下出血で倒れ、右半身不随になり入院。。

長い闘病生活になっていました。

 

3/6(日)の早朝、妹から電話があり、そんな祖母が亡くなったのを知りました。

予定を全てキャンセルして山形に帰るために準備、昼の新幹線に乗りました。

上の写真は山形新幹線の車内から撮った写真。

まだ雪も残っていて肌寒い感じ。

いつもならワクワクしながら雪を見るのに、今回はそうではない、不思議な感じに見えました。

 

母方の祖父が亡くなったときもそうだったんですが、

一人暮らしが長く、お盆休みと年末年始しか会ってなかったので、実感が湧かなかったです。

ものすごい悲しみに襲われてあり、泣いてしまうことも、山形に着いて本人と対面するまでは、ありませんでした。

「その人がいたからこそ出来ていたもの、あったもの」が無いのだと実感したとき、

初めてその存在が無くなってしまったことを実感しそうです。

 

弔辞を書きながら振り返ったら忘れてた思い出ばっか出てきた

父が喪主をつとめ、孫の僕らは基本的にはお手伝い。

葬儀も同様ですが、告別式では弔辞を読みました。

改めて振り返ったのも弔辞を書いているときでした。

 

<幼少期>

うちは母が夜勤など不規則な仕事をしていたので、必然的に幼いころは祖母がいろいろ面倒を見てくれました。

兼業農家をやっていたので、よく軽トラックの荷台に妹と2人乗せてもらって、

畑や田んぼに行って遊んだりじいちゃんばあちゃんの農作業の手伝いをしたものでした。

今は軽トラックの荷台に人を乗せて公道を運転しちゃダメなんですよね?

当時はその辺はゆるかったのか、農道を走ってたから大丈夫だったのか。。

でも車の荷台から顔をだしてると風が本当に気持ち良くて大好きな場所でした。

泥だらけになって畑仕事を手伝って、さくらんぼやリンゴなども作ってたので木に登って収穫したり…

小学生になったら自転車を買ってもらえたので、

妹と一緒にその自転車をこいで畑や田んぼまで何キロも走った記憶があります。

 

ガソリンスタンドで給油するのも手伝ったりしてたので、

今でもガソリンスタンドのあのガソリンの匂いとか好きです(笑)

 

<小学校〜高校時代>

僕ら兄妹はピアノとスイミングを習ってましたので、その送り迎えもばあちゃんでした。

帰りに不二家レストランに寄ってホットケーキを食べるのが楽しみ(^_^)

今でもホットケーキ大好きですが、お洒落なパンケーキより、不二家のホットケーキの方が美味しく感じるというか…不思議ですね。

作った農作物を生協のまえで直売所としてやったり、それを手伝いに行ったりもしましたね。

売上から僕らにお小遣いをくれたり、それでお菓子を買ったり。。

 

中学・高校になってからも、母が忙しいときはご飯作ってくれたり、買い物に連れてってくれたり…

山形は冬になると雪が大量に降ったので、登校に自転車が使えなくなったんで、

そのときは軽トラで駅と自宅の送り迎えをしてくれました。

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<大学進学〜>

大学進学そして社会人になってからは、一人暮らし先が遠いということもあり、

年に2回しか帰省しなかったので、会う頻度としては減りました。

いつも気にかけてくれていましたね(*'-'*)

 

なんか弔辞みたくなっちゃいましたね(^_^;A

でも思い出すと幼いころはばあちゃんばっかりです。。

最初で最後の手紙 

僕は就職して名古屋に住むようになりましたが、当然最初は新入社員だった訳で。

んで初任給なるものも当然ありました。

そのときに1つ決めていたことがあって、それは祖父祖母にわずかではありますが、

「仕送りをすること」でした。

別にばあちゃん達の生活が苦しくてとかじゃなく、

社会人になって自分でお金を稼ぐようになったということを報告したかったから。

いくら包んだかは覚えてませんが、到着した日に電話がかかって来て

「こだなもったいなくて使わんねは〜(こんな勿体なくて使えないよ〜)」

と何度も言っていて恥ずかしいけど嬉しかったのを覚えてます。

 

後日手紙も送られて来て、今でも大事に保管してあります。

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ご無沙汰しています。

先日はゆう(ばあちゃんが呼んでたのぐちょの名前)の初任給を送って戴いて本当にありがとうございました。

七十四年間(手紙当時は2007年)生きて来て、こんなに嬉しい事は初めてです。

子供からももらった事も無いのに孫からいただく事は、誰から貰ったよりも嬉しいです。

じいちゃんと二人で嬉し泣きしました。

こういう気持ちをもって居るゆうは出世するよね。

じいちゃんと二人で、大黒様や佛様や神様にあげて、今後もゆうが無事で働ける様に拝みました。

 

有難くて嬉しくて勿体なくて使えません。

長く保管していきたい位です。

毎日出しては眺めて、仕舞って、また眺めてを繰り返しています。

ゆうの顔を見ている様です。

農作業で忙しくて返事おくれてすみませんね。

 

ゆうが結婚するまでは死にたくないです。

体に気をつけて長生きしたいと思います。

入社したばかりで辛い事も色々苦労もあるでしょうけど、上司の言う事を良く守って頑張ってください。

食べ物はちゃんと食べて、ちゃんと寝て、健康に注意してお暮らしくださいね。

 

その内実家に休みに来る事を楽しみにしてます。

では元気でね。

 

じいちゃん

ばあちゃんより

今日改めてこの手紙を読んで泣きそうになりました。

「ゆうが結婚するまで死にたくないです」

この一文を読んで、それを見せてあげられなかった申し訳なさで。。

 

ばあちゃんが生きている間に結婚して、嫁さんを見せてあげたかった。

結婚式に呼んで感謝の気持ちを伝えたかった。

 

2007年当時は手紙や万年筆にそこまでこだわりが無く、

この手紙のあとにやり取りすることはありませんでした。

今だったら毎回手紙を書いて送っているでしょうに…

 

実感させてくれるものは葬儀ではなく…

納棺・葬儀・告別式とありましたが、

対面したときはまるで眠っているかのようで、亡くなった事実しか理解できませんでした。

確かに、納棺の際に最後に触れたとき、棺が火葬する場所の中に入ったとき、

悲しくなりました。

もうこの世からばあちゃんがいなくなってしまう。

ばあちゃんの姿をしたものが無くなってしまう。

 

でも最も悲しくなったのは、手紙を読んだときでした。

まだ元気であった当時に書いてくれた手紙。

「ゆうが結婚するまで死にたくないです」という一文は、もしかしたら冗談の意味も含まれていたかもしれません。

懐かしくもあり、まだ元気だったころのばあちゃんが思い出されます。

 

僕の中で、亡くなってからの葬儀より、

亡くなる前の元気だったころの思い出や手紙のが、亡くなった事を実感させてくれるものだったようです。

「もう叶えてあげることが出来ない」

その事実が「もういない」ということを実感させてくれました。

 

だから手紙を書いた方がいいとか、感謝の気持ちを伝えておけとか

そんなこと事情がある方もいると思うので、簡単には言えません。

ただ、何かしら残しておいてほしいと思います。

僕の場合は手紙でしたが、元気なころ貰ったもの、きいた話、何でもいいので。

 

日記なんかもいいかも。

その人とどんなことをやったのか、どんな気持ちで接していたのかって案外忘れてたりするものなので(^_^;A

 

あとがき

今回はちょっと感傷的になってしまいました。。

8年ぶりに手紙を読んだからかもしれませんね

内容もそうでしたが、読んでいて元気だった頃のばあちゃんを思い出したからかも。

今、あの世から手紙をもらったかのような不思議な感覚です(笑)

 

これからもずっと持ち続けますし、将来自分に子供が出来たとき、

こうやって残していけたらと思っています。

その頃には今使ってる僕の万年筆も、その名の通り、

次の世代に引き継がれていってたら嬉しいな〜なんて思った今日の午後でした(^_^)

 

んだらね〜♪