のぐちよの”気になる”ブログ

万年筆とカフェ、音楽と空、そして猫が大好き♪ ”気になる”と思ったことをつらつら書いたり考えてみたりするブログ

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あの日のことと、当事者でしか分からない生死感(愛知に住む東北出身者のぼやき)

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 photo credit: Dusty J via photopin cc

 

地震の恐怖は異常、のぐちょ(@yuukinogutyo)です。

 

昨日(3/14)の深夜2時、愛媛県沖で震度5強地震がありましたね。

僕の住む愛知も震度3で、こんだけ離れてるのによく揺れたなと思います。

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地震情報 2014年3月14日 2時6分頃発生 最大震度:5強 震源地:伊予灘 - 日本気象協会 tenki.jp

南海トラフ地震の前兆か?と話題になりましたが、気象庁の会見によると「前兆ではない」とのこと。

まだまだ警戒が必要ですね。

 

今回は3年前、2011年3月11日の東日本大震災の時

名古屋にいた僕が感じたことを書きます。

※直接の被災者ではないですが、地元が被災したこともあり、

名古屋にいたからこと感じたことがありました。

 

2011年3月11日の私

地震は会社で仕事をしているときに発生した。

最初小さな揺れだったのが徐々に大きくなり、その強い横揺れは長時間に及んだ。

ビルの8階だったからかもしれないが、オフィスにいる女性が軽くパニックになるほど揺れたと記憶している。

僕は立って話をしていたので最初気づかず、

「あれ?オレ体調わるい?視界が揺れてるな〜」程度。

 

あまりに揺れるのでビル内にアナウンスが流れてビル外に避難。

外に出ると揺れがおさまっていたので、すぐにオフィスに戻ったが、

またすぐに揺れはじめて「これはヤバいぞ」と思いPCで状況を調べた。

 

東北で震度8の地震が起こったのだとこのとき初めて知った。

このときは不思議なほど実感が湧かなくて「まあ大丈夫でしょ」とどこか安心してた。

東北ではなく、どこか他の地域で発生した地震のように。

なんだったんだろうあの無駄な安心。

これまでも大丈夫だったし、今回も大丈夫だろうと思っていたのかもしれない。

 

親や実家に連絡してもつながらないし、無事を祈って仕事を続けた。

その日はそのまま仕事をして帰った。

 

帰ってから再度電話してもメールしても繋がらない。

通信制限してるためだ。

テレビは全チャンネルで地震津波の映像を放送していて、津波は街に壊滅的な被害を与えていた。

気仙沼の街が炎上してる映像が流れ、なんだか見ていられなかった。

 

宮城や岩手には友人や知人、親戚もいるので、なんだか最悪な状況ばかり思い浮かんできて辛くなってきてた。

そこに友人から電話。

「大丈夫?とりあえずいつものダーツバーおいでよ!家にいると精神的にキツいだろうし」

僕はダーツバーに行くことにした。

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photo credit: Geopelia via photopin cc 

店に着いて気づいた”違い”

ダーツバーに行くと友人が待っていて、色々話を聞いてくれた。

名古屋市中区にあるその店の様子はいつも通り。

カウンターに座って大型液晶テレビを見ると、震災で燃える街の中継映像が流れていた。 

 

なんとも言えない感覚。

まるでテレビで映画が流れているような・・・

 

けどその映像は現実のもので、その映像の先で今この時点で亡くなっている人がいる。

つくりものではなく、紛れも無い事実。

 

そして後ろではお酒を飲みながらダーツを楽しむ人たち。不安に震える私

ものすごい違和感

別にこの方々を批判したりするつもりはない。

ただ思ったのは

 

「所詮、当事者以外は他人事でしかない」

 

という至極当たり前の結論だった。

僕だって直接被災しているわけではないから、”まさに当事者”の方から見れば

お前に何が分かる!と言われても返す言葉がない。

ただ実家や親戚、友人・知人が被災して未だ連絡がとれない状況にいる人間

というだけだから。。

 

きっとこの店にいる人たちにも大切な人や家族がいるのだろう。

でも今回については直接的な心配がないのかもしれない。

 

うーん、いや、もしかしたら僕のように

自宅に一人でいたら辛くなってきて、それを一時的にも頭から離すために

自分の不安をはらうために店に来ている人もいるかもしれない

 

そう考えると憤りや落胆もなかった。

ただ心ない人はどこにでもいるもので、その人の発言にイラッとすることもあったけど。

 

この当時はこの違和感というか結論を上手く言葉にすることはできなかったが、

ビートたけしさんが震災直後に語った言葉が、それを代弁してくれていると思った。

以下、一部引用です。

ビートたけしが震災直後に語った「悲しみの本質と被害の重み」 (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。


 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。

 人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

 

一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。

残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。

2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、

その悲しみに今も耐えてるんだから。

これは実際に周りの人で亡くなった方がいる人でないと、

この「1人が死んだ事件が2万件」って感覚がきっと分からない。

他の人がどうでもいいという訳じゃないけど、失った人からしたら2万より”1人”

その積み重なりが2万あると想像しただけで、その膨大な悲しさの数が想像できる。。  

逆に言えば、それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。

海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、

ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。

「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。

今回は日本国内での大きな災害で、全ての国民が地震をはじめとした災害への対策を意識するきっかけになるものだった。

でも「当事者」にしか分からない、その切迫感や緊張感は確実にその人の災害意識を変えて行く。

 

まとめ

今回の記事は3月10日に書いていて、投稿するか迷っていたけど思い切って投稿した。

昨日の地震と、それからTwitterを見ていて温度差を感じたから。。

 

震源地近くに住んでる人は、不安と焦りにかられるツイートが目立ったのに対し

震源から遠くに住んでる人の心ないツイートや煽るようなツイートを目にして

3年前に感じた違和感と同じものを感じたからだ。

 

実家や東北の知人は「震度5くらいじゃ驚かなくなったよ(笑)」とか笑っているが

その笑顔の裏にどんな悲しみがあったか、当事者でなければ分からない。

 

なんかまとまりなくなってしまったけど、愛知に住む東北出身者として、

被災した友人知人・親戚を持つ身として

当時不安に思ったこと、違和感を感じたことを書いてみました。

 

今度は南海トラフか、東海大地震かと言われています。

地震大国である日本に住んでいる以上、どこででも大地震は発生する可能性が高い。

今日は久しぶりに家に用意してある防災セットの確認と更新をしました。

実家の親に電話して、そうなったときの確認をしました。

 

そのときになってからでは手遅れだから。

 

んだらね。